体調がちょっと悪く、来週の5日から入院。とはいっても20日から渡比
するので、なんとかそれまでには体調を少しでも戻さなくてはと思っております。
そんな訳で暫くは更新するのが遅くなります。申し訳ございません。
4月9日がまた近くなってきました。
1942年太平洋戦争の真っただ中、捕虜となった約10万人近いフィリピン、
アメリカの兵士を日本軍が長距離を歩かせ多くの犠牲者を出した、
いわゆる「バターン死の行進」が始まった日である。
この「死の行進」を一部再現する事を比国防省、観光省、そして国内旅行業者
が共催し、捕虜収容所があるタルラック州カパス町で4月11日に実施すると
発表があった。
「死の行進」とはどんなものであったのであろうか。
それは、まさに残虐行為そのものであったという。
その内容は、約100キロ先のパンパンガ州サンフェルナンド市まで歩かされた。
残虐行為の種類
死の行進における死は、あらゆる形でやってきた。最初に“自然原因”が あった。バターンの兵士たちは4ヶ月間飢餓状態の食糧しか与えられず、またバターンにはマラリアや赤痢が蔓延していた。その結果、日本軍に捕われた兵士たち の健康状態は最悪であった。脱水状態や熱射病、病、過労や負傷などが、多くの男達を行進から脱落させたが、それは殆どの場合死刑の宣告に等しかった。少人数で監視にあたった日本兵の多くは、捕虜が脱走する可能性を残すよりは、倒れた捕虜をその場で刺殺するか銃殺したからだ。あるグループは全く水を持たず、脱水状態で死亡した。同じ道を南下する日本軍のトラックやタンクが、意識的に捕虜を轢くこともあった。ある者は、トラックに乗った日本兵から通り過ぎる際に頭を打たれ、殺されたり意識を失ったりした。日本兵は捕虜を銃剣で刺したが、将校は、捕虜の首を刎ねるのに軍刀を使った。ある者は何の理由も無く殺され、ある者は監視兵が日本語で与える命令に従わなかったために殺され、さらにある者は、指輪やその他の貴重品を差し出すことを拒んだために殺された。
皮肉なことに、日本兵と戦った記念品を持っていることを見つけられた捕虜は、直ちに殺された。日本将校が、ミッキーマウスの時計欲しさに米兵を殺したこともあった。生き埋めにされた者もおり、監視兵から銃口を向けられ、仲間を殺すことを強要された者もいた。フィリピン軍第91師団の400人が、整列させられ煙草を与えられた後で、日本軍第65旅団の兵士により、大量殺害された事件もあった。これについては、後で触れる。疾病、そして行進後に起こった多くの死は、殴打、負傷者の放置、そして行進中に悪化した負傷によるものだった。休憩所の不潔さは、赤痢などの熱帯病をさらに蔓延させた。これが犯罪の種類であった。
【ジム・ネルソン「バターン死の行進」その原因の再考 より抜粋】(一方、捕虜に対する虐待があったとの米側の指摘には
「護衛兵自身も疲労困憊(こんぱい)して、虐待行為を為すの気力も無かりしもの」と否定している。 )
私は、戦争を知らない世代で、祖母より戦争の話を聞かされていた程度。
だから、日本兵の残虐行為より、東京大空襲(私の母は東京生まれ)の話と
祖父がミンダナオで戦死した事しか知らない。
この後進は、10.5キロを歩くようである。
参加費は一人P750で、参加者にTシャツ、記念品が配られるほか
捕虜収容所のレプリカを建設する事業費や犠牲兵士の遺児たちの奨学金に充てられるという。
日本人の参加も呼び掛けている。
私は4月2日には帰国してしまうので、参加出来ないのがとても残念である。
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